桶川宿はこんなところ
●どこに
 桶川宿は、日本橋から10里余り、江戸から6番目の宿として開かれました。この距離は、現代のマラソンの距離とほほ同じで、健脚であった江戸時代の人々のほぼ1日の行程にあたります。
●街の生い立ち
 中山道は、徳川家康が天正18年(1590)に江戸に本拠を置いた後、五街道の一つとして整備が進められました。やがて、関ケ原の合戦を経て、江戸幕府による全国支配の確立の中で街道と伝馬制度が整えられ、三代将軍家光によって参勤交代の制度が確立した寛永12年(1635)ころには、ここ桶川宿『すでに成立していたと考えられます。
 宿場の開設当初に近い寛永14年に58軒であった宿場の戸数は、紅花が取り引きされるようになった寛政12年(1800)には247軒に達し、桶川宿も「町」としての姿を示すようになったようです。
 その後、桶川宿は、「中山道もの」といわれた麦や、紅花の集散地として栄え、幕末に近い天保年間(1840年ころ)には、家数347軒に達しています。中山道桶川宿は、明治に至り、明治18年(1885)の高崎線桶川駅の開業とともに、宿場としての役割を終えますが、以降、近代をとおして、埼玉県中央部における麦の集散地として、その繁栄は続きます。
●出来事 ―皇女和宮のお泊り―
 桶川宿は、加賀百万石前田家をはじめとする参勤交代の大名を迎え、15代将軍徳川慶喜の父君である水戸烈公徳川斉昭もこの地に足跡を残しています。
 文久元年(1861)には、近世中山道の最後を飾る大通行として知られる皇女和宮の江戸下向のときに、ここ桶川宿は、―行の宿泊と人馬の継ぎ立てに大きな役割をはたしています。11月13日、和宮を迎える桶川宿には、3万人を超える人々が行列の通行のために集められたと記録されています。

桶川と紅花
 後に桶川臙脂の名で全国に知られるようになる当地の紅花は、天明・寛政年間(1781〜1801)に、江戸の商人によって最上紅花の種子がもたらされ、その栽培が始まったと伝えられています。その後、幕末には、 最上(山形県)に次ぐ産地として知られるようになり、その品質も最上紅花をしのいだとも伝えられています。
 紅花は、初夏、朝露に濡れる畑から摘み取られ、紅餅に加工された後、桶川宿の商人の手を経て、京都へと出荷されていきました。
 桶川に富と新たな文化をもたらした紅花ですが、明治に至り、輸入染料にとってかわられ、桶川から姿を消してしまいました。
 平成6年、桶川市は、紅花を街づくりのシンポルとしてよみがえらせ、 「べに花の郷づくり事業」を展開し、生活文化都市の創造をめざした街づくりを進めています。